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この世の果て−−野島伸司の脚本−−  [1994.5]

 

 一 映画『高校教師』について

 

 野島伸司脚本のテレビドラマの映画化された『高校教師』にはあまりなじめなかったが、頽廃的で甘美なエロティシズムが後味として残るのはたしかだ。繭という人格破綻の少女役の遠山景織子がもつ雰囲気のおかけだろう。映画そのものとしては、登場人物が誰もあまりにもエキセントリックで戯画的すぎるし、ストーリー展開もどこかでみたような筋書きのモザイク細工で、現在のティーンエイジャーと家庭の軋みの姿が象徴されていることを期待した私にも、どこか異常な何かをそっと期待していたに違いない観客の多くを占めた女子校生たちにも、肩すかしのような期待はずれを味わわせたように感じられた。その点で、「不協和音のハーモニー」をつくりだすことに成功しているとはとても思えなかった。

 

 モチーフとしては、人格的同一生そのものの維持し難い現在という様相を登場人物のキャラクター、推移する出来事、超越的な作り手・観客の視線の全てに亙ってバラまいたような表現を行いたいということなのだろう。だが、どうしても突き抜けた感じがなくて、プロットもストーリー展開もどこかでみたようなものをつなぎあわせた感じに終わってしまっている。タナトス、自己破壊願望があまりにも直接的に描かれていて、興醒めさせられてしまうのである。

 

 たしかにそこに描かれようとしたのは、寂しさの形而上学的ともいうべき究極的な結晶と絶対的に癒されないことの不可避的な求め合いの渇望であり、死という不在の回路を通してしか密通しえないと信じあわれた二人の傷の深さである。そこに繭という人格破綻の少女を演じた遠山景織子が後味として残す魔性の雰囲気と頽廃的な甘美なエロティシズムが重なることがかろうじてこの映画を印象に残るものとしている。だが、「たとえば僕が死んだらそっと忘れてほしい」と唄った森田童子の主題歌から、「たとえば」という含みを削ぎ落とした結末を作ってしまったことで、かなりの通俗に流れてしまったように思われる。その結果、ただの反道徳的扇情だけの不快な代物に堕してしまってもいる。(1993/11

 

 二 フジテレビ『この世の果て』について

 

 これに対して、同じ野島伸司の脚本でフジテレビで放映された『この世の果て』(199413月)のほうは、脚本の内容としてはほとんど「第三の繭の物語」とでもいうべきもので、映画版『高校教師』の変奏曲といえるものであるが、ずっと優れたものになっていた。その違いは、映画版『高校教師』には森田童子の「たとえば僕が死んだら」という静寂の歌声がどこかなじまないままに流れていたように感じさせられたのに対して、『この世の果て』には尾崎豊の「Oh, My Little Girl」という哀切な歌声が実によくなじんでいたという肌触りのちがいとして私には感じられた。

 

 この世の果て、とはじつに直截的なタイトルである。なんのひねりもないままに、このドラマはこの世の果てへとトボトボと歩を進めて行った。じつに直截的なこの世の果てを、たしかにこのドラマは垣い間見せていた。

 

 主人公の砂田まりあ(鈴木保奈美)は、繭と同じく父殺しの原罪を抱えて無限の寂しさの地獄に住んでいる一人である。そこに、同じ空虚さをもつ人々が交差するところにドラマは進行する。だが、遠山景織子が妖しい魔性の美少女だったのとはちがって、鈴木保奈美は惨めさと孤独さの中に不思議な孤高さをたたえている、「まりあ」のように。そこが、同じように、寂しさの形而上学的なまでの究極的な結晶、絶対的に癒されることのない傷の深さを描きながら、映画版『高校教師』の耽美的な雰囲気に対してこのドラマを厳粛なまでの宗教性にまで追い詰めかけていた要素となっている。その結果、野島伸司は『この世の果て』では癒しと救いをもとめ描くこととなっている。同じくわけのわからない破壊衝動で自分自身をも二度と立ち直れなくしてしまう人格悲劇を描きながら、映画版『高校教師』のようにただ破壊的なだけのものとは紙一重に異なる世界が切り出されている。そして、そうであるが故に、わけのわからないタナトスの激しさの悲劇も、無限の寂しさの地獄も、反社会性・反道徳性も、カリカチュアライズされることなく隠影深く引き立たせられている。

 

 砂田まりあは、記憶喪失になり、覚醒剤中毒になってもはや二度と立ち直れなくなったかつての天才的ピアニスト高村士郎(三上博史)にたいして無償の愛を捧げる。だが、孤高な魅力をたたえたまりあは財閥の御曹司・神矢征司(豊川悦司)にも結婚を求められるようになる。この御曹司も限りない孤独感の地肌に仮面をつけて生きている一人なのだ。そして、たんに高村士郎を救うための金のためだけではなく、神矢征司の孤独に触れ合えたからこそ、まりあは征司の求婚を受けて、必死の献身で立ち直らせた士郎に別れをつげたのであった。御曹司との結婚式は盛大で華やかなもので、ハネムーンへは自家用のヘリコプターで飛び立って行く。ところが、ヘリコプターの上から士郎の姿を眼にしたまりあは、唐突に、いかなる心の動きによるものとも知れぬままに、気高く美しい謎の微笑を残してヘリコプターを飛び降りてしまう。

 

 ただ、自分が幸福になりおおせてしまうことを許せなかった傷の深さということだけでは割り切れない。同時に、彼女を愛する男たちや妹の眼の前でそうすることで、やはり周囲をも悲嘆のうちに引きずり込むことに至上の快楽を感じたかのような笑顔である。

 

 立ち直った高村士郎は天才的ピアニストとしての栄光も、そこからの転落の自虐にひたる悲劇の主人公としての過去も静かに脇において、淡々と地味な職を探してようやく美術商のアルバイトの口にあたる。彼のアパートには、生命だけはとりとめた砂田まりあが鑞人形のように美しく介護されている。無償の愛と、しかし、これから流れて行くであろう砂のような無表情な時間だけが、二人の前には約束されている。そして、エンディング。砂丘の映像と尾崎豊の「Oh, My Little Girl」・・・・。

 

 このような本筋のストーリーに絡ませて、登場人物の数だけ副線が展開しているが、これでもかこれでもかというように同じ主題の変奏曲で徹底しているところに、このドラマの特徴がある。ひとつだけ挙げると、まりあの母親のエピソードは、小さく、しかも唐突に配されているだけに、かえって絶妙の印象を残すものとなっている。

 

 最終回の前の回は、それまでほとんど前触れのなかったまりあの母親(吉行和子)の唐突な自殺からはじまる。知らせを聞いて現場に駆けつけると、そこは見知らぬ初老の男のアパートで、その男の野垂れ死にのような病死に後追い自殺をしたというのだ。視聴者のほうも、まりあ同様になにがなんだかわけがわからないうちに、母親の遺書のナレーションが流れはじめる。

 

 じつは、この男がまりあの本当の父親なんだ。こんなになっちまっているけれども、若いときの一時期には、売れっ子の脚本家で華やかだったこともあるんだ。でも、それもほんのいっときのことでね。すぐに落ちぶれて、それでこの人とは別れてまりあを連れて再婚したのさ。それが、ある時、何十年ぶりかで出くわして、まるで廃人のようになっていたのに哀れになって面倒をみていたんだ。「あたしはこの人の後を追ってゆくつもりだよ。きっとまりあ、おまえには分からないだろうけど、人間はある期間をすぎたら、後はどうでもいい時間なのさ。それに、この人は駄目なんだから、ひとりじゃあの世だって生きちゃいけないだろうから。」(『この世の果て』幻冬社、19945,P.317

 

 「そしておまえは、決してあたしと同じようには生きないでおくれ」と結ばれていた母親の遺言にもかかわらず、まりあはこの世の果てに唐突に自らを追い込めていったのである。だが、なかなか凄いと思ったのは、「若いときはかなり売れた映画やテレビの台本書きだった」男の死にざまへのカメラの映し方であった。うつ伏せのまま顔も映されず、まして感傷的な回想シーンが冗長に付け加えられることもない。それは、あっけなくもみじめな亡骸への通りすがりのように無関心な視線そのものをも映し出すことに成功していた。野島伸司という脚本家の自虐的なマゾヒズムと激しい自己破壊的なタナトスが鋭利に突きつけられたエピソードの意味を、演出やカメラが見事に結晶化したシーンだったのではないだろうか。

 

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